演奏するということ
2009年 09月 25日
最近思うのだが、演奏家というのはフィルターである。
作品は演奏家というフィルターを通る。そして抽出されたものが聴衆の耳に届くわけだ。演奏会でモーツァルトを聴いてもベートーベンを聴いても、われわれが耳にするのはフィルターを通して抽出されたものであり、モーツァルトやベートーベンそのものではない。
フィルターとしての演奏家は人間であるから、スコアを通じて驚いたり、喜んだり、疑問に思ったり、怖れたりする。その心の有り様はまさに十人十色だ。だから、フィルターを通して出てきたものもひとりひとり異なる。
話を単純にするために指揮者に限定して考えよう。彼は自分では音を出さないのだから抽象化しやすい。では、フィルターとしての指揮者は何をしているのか。
私は長い間、指揮者というのは何をしているのかよくわからなかった。楽団員に命令して演奏させているのか、頭を下げて弾いてもらっているのか、彼らの交通整理を買って出ているのか、謙虚にも作曲家の下僕としてその代理を務めているのか、傲慢にも作曲家に取って代わろうとしているのか、ただ気持ちよく踊っているだけの変態なのか、単なる目立ちたがり屋なのか、器楽奏者として挫折した暗い過去をもつ屈折した人なのか、「指揮」という言葉に優越感を感じるアンポンタンなのか、などなど、その本質がつかめなかったのである。
しかし、フィルターだと考えるとなんだかすっきりする。われわれは指揮者というフィルターを通して作品を聴いているわけだ。演奏会の質や感動は、このフィルターの質や自分との相性などに左右される。指揮の動作やバトンテクニックに眼が行きがちだが、本質はそんなところにはなく、フィルターとしての彼の内面にあったのだ。
では、フィルターの質を高めるために偉大な指揮者は日々何をしているのだろう。
こういう謎を心にひっかけて演奏会に出かけると、またひと味違った楽しみを得られるのではないだろうか。
作品は演奏家というフィルターを通る。そして抽出されたものが聴衆の耳に届くわけだ。演奏会でモーツァルトを聴いてもベートーベンを聴いても、われわれが耳にするのはフィルターを通して抽出されたものであり、モーツァルトやベートーベンそのものではない。
フィルターとしての演奏家は人間であるから、スコアを通じて驚いたり、喜んだり、疑問に思ったり、怖れたりする。その心の有り様はまさに十人十色だ。だから、フィルターを通して出てきたものもひとりひとり異なる。
話を単純にするために指揮者に限定して考えよう。彼は自分では音を出さないのだから抽象化しやすい。では、フィルターとしての指揮者は何をしているのか。
私は長い間、指揮者というのは何をしているのかよくわからなかった。楽団員に命令して演奏させているのか、頭を下げて弾いてもらっているのか、彼らの交通整理を買って出ているのか、謙虚にも作曲家の下僕としてその代理を務めているのか、傲慢にも作曲家に取って代わろうとしているのか、ただ気持ちよく踊っているだけの変態なのか、単なる目立ちたがり屋なのか、器楽奏者として挫折した暗い過去をもつ屈折した人なのか、「指揮」という言葉に優越感を感じるアンポンタンなのか、などなど、その本質がつかめなかったのである。
しかし、フィルターだと考えるとなんだかすっきりする。われわれは指揮者というフィルターを通して作品を聴いているわけだ。演奏会の質や感動は、このフィルターの質や自分との相性などに左右される。指揮の動作やバトンテクニックに眼が行きがちだが、本質はそんなところにはなく、フィルターとしての彼の内面にあったのだ。
では、フィルターの質を高めるために偉大な指揮者は日々何をしているのだろう。
こういう謎を心にひっかけて演奏会に出かけると、またひと味違った楽しみを得られるのではないだろうか。
by utremi
| 2009-09-25 17:30
| 音楽